美術館の現在:「作品を見る場所」から、「生きることを支える場所」へ――いま、美術館に何が求められているのか
- bijutsukenteiweb
- 7月8日
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『新・アートの裏側を知るキーワード』番外 ミュージアムupdate

2026年5月23日、国立新美術館で開催された「NCAR共創フォーラム Vol.2 Arts, Health & Wellbeing」では、「ミュージアムで幸せになる。」というテーマのもと、美術館と健康、そして地域社会との関係について議論が交わされた。
登壇したのは、日本と英国の美術館関係者、研究者、医療従事者、行政担当者らである。フォーラムで繰り返し語られたのは、「美術館は、単に作品を展示する場所ではなくなりつつある」という認識である。
そこでは、アートを通じて人と人がつながり、孤立を防ぎ、地域社会を支える新しい公共空間としての美術館像が提示されていた。
本フォーラム終了後には、国立アートリサーチセンター、東京藝術大学「共生社会をつくるアートコミュニケーション共創拠点」、マンチェスター大学「クリエイティブ・マンチェスター」の3機関によるクリエイティブヘルスと文化的処方の分野における「連携に関する覚書」協定(MoU)の締結式が行われた。

今回のフォーラムは、以下の多岐にわたるプログラムが遂行された。そのため、本稿では特に「これからの美術館の役割」にフォーカスしてレポートする。

「健康」の意味が変わり始めている
今回のフォーラムの背景には、近年大きく変化している「健康観」がある。
かつて健康とは、「病気ではない状態」を意味することが多かった。しかし現在では、WHOが示した「身体的・精神的・社会的に良好な状態」という定義を土台に、「ウェルビーイング(人がより良く生きる)」という考え方が広がっている。
特に重視されているのが、「社会とのつながり」である。孤独や孤立は、心身の不調や健康格差に深く関わることが明らかになってきた。高齢化が進む日本では、こうした問題はさらに切実になっている。フォーラムでは、「健康の社会的決定要因」という言葉も紹介された。人との関係性、地域とのつながり、文化へのアクセスなどが、人の健康を左右するという考え方である。
そのとき、文化施設は単なる娯楽や学習施設ではなくなる。美術館を含むミュージアムや図書館、劇場といった文化拠点が、人々の孤立を和らげ、地域との接点を生み出す場として注目され始めているのである。

英国マンチェスターが進める「クリエイティブヘルス」
今回、特に注目を集めたのが、英国マンチェスターの先進事例だった。
英国では近年、「クリエイティブヘルス」という概念が広がっている。これは、芸術や文化活動への参加が、人々の健康や幸福に寄与するという考え方だ。
絵画鑑賞だけではない。音楽、工芸、ダンス、ガーデニングなど、多様な文化活動が対象となる。
英国では2017年に超党派議員連盟による議会報告書がまとめられて以降、文化と医療・福祉を結びつける政策が加速した。今回紹介されたマンチェスターの取り組みは、その中でも特に先進的な例である。興味深いのは、行政、大学、医療機関、文化施設、地域団体が横断的に連携している点だ。
例えば、
•幼児教育にダンスを取り入れる
•図書館で子どもの言語発達支援を行う
•認知症介護者の孤立を防ぐ文化プログラムを実施する
•COPD*1患者向けに呼吸法と歌唱を組み合わせたプログラムを行う
•自閉症やADHD*2の若者の就労支援を文化活動と結びつける
といった実践が紹介された。
ここで重要なのは、「芸術を鑑賞すること」が目的ではないという点である。文化活動を媒介として、人が他者とつながり、自分の居場所を持ち、社会参加を取り戻していくこと。そのプロセス自体が健康につながると考えられている。
また、マンチェスターでは、これらを単なる福祉活動ではなく、「地域の成長戦略」として位置づけている点も特徴的だった。健康状態が改善すれば、就労や社会参加も促進される。結果として地域経済にも好循環が生まれるという考え方である。
このような先進的な取り組みが進むマンチェスターであっても、クリエイティブヘルス分野は、プロジェクトベースの短期的な資金調達モデルに依存していることが多く、持続可能なエコシステムを構築することが課題となっている。そのために、マンチェスター大学は「市民大学」として学際的研究を推進し、数値的な分析を含むエビデンスの構築と実践を担う中心的な役割を果たしている。
*1=慢性閉塞性肺疾患
*2=発達障害

「市民のための美術館」へ
マンチェスター大学内にある美術館の取り組みとして、ウィットワース美術館の実践例も紹介された。
同館では、「遊び」「ケア」「共創」をキーワードに、多様なコミュニティとの協働を進めている。
たとえば、
•幼児向けの感覚的なアート体験
•流産・死産や乳児死亡を経験した親たちのケアプログラム/助産師や医療従事者のケアプログラム
•薬物依存からの回復支援
•高齢者や更年期世代へのサポート
•HIV陽性者との共同プロジェクト
•移民コミュニティとの展示制作
など、従来の美術館像からは想像しにくい活動が展開されている。
ここで美術館は、「作品を静かに鑑賞する場所」というより、「人が生きるための対話空間」として機能していた。
特に印象的だったのは、「コレクションを生きた歴史として扱う」という考え方である。作品を鑑賞するのではなく、その背後にいる人々や記憶、物語と出会う。その経験を通じて、自分自身の人生や他者との関係を見つめ直していく。
美術館は、知識を得る場所であるだけでなく、「他者とともに生きる感覚」を育てる場になり始めている。

日本でも始まっている変化
日本でも同様の動きは始まっている。
東京藝術大学や国立アートリサーチセンターが取り組む「ART共創拠点」プロジェクトでは、従来の日本のヘルスケアシステムを進化させ、精神的・社会的幸福に着目した「文化的処方」の概念を提唱している。高齢化が進む日本社会において、芸術やミュージアムなどの文化施設を利用して社会的なつながりを生み、孤立と闘い、社会全体での健康観を育むことを目指す。

東京都美術館は台東区の永寿総合病院認知症疾患医療センターと連携し、軽度認知障害(MIC)のある人々を支援する「ミュージアム処方:上野モデル」の2023年から25年にわたる取り組みを紹介した。
この実践に至るまで、上野地区では東京都美術館を中心にミュージアムを拠点にアートを介してコミュニティを育むソーシャルデザインプロジェクトを10年以上展開してきた。2012年から東京藝術大学と協働で始動した「とびらプロジェクト」では、一般市民から公募したアート・コミュニケーターが美術館を拠点に活動し、人と作品、人と人をつなぐ。この活動は現在も継続している。また、2021年からは高齢者を対象としたプロジェクト「Creative Ageing ずっとび」を開始、地域の医療・福祉関係者と連携した実践を重ねて来た。このような取り組みの継続と組織間の信頼関係によって、日本では前例のない「美術館と医療機関が連携」し、軽度認知障害のある人々を支援するモデル構築につながった。


上野モデルでは、美術館を訪れることそのものが、外出や会話、軽い運動、社会参加につながることを明らかにした。さらに、作品について他者と自由に語り合うことが、自己肯定感や安心感を生むという指摘もあった。パネルティスカッションでは、「美術館を歩くことは軽い有酸素運動にもなる」というユーモラスな発言もあったが、それは決して冗談ではない。
これまで美術館は、「知識を持つ人が行く場所」という印象を持たれがちだった。しかし現在は、「誰もが安心して過ごせる場所」へと役割が変わりつつある。
日本の課題は「組織の変化」
一方で、日本側からは課題も多く指摘された。
最大の問題は、美術館の組織体制である。日本の多くの美術館は、少人数で運営されている。展覧会準備や収蔵品管理だけでも負担が大きく、新たな社会的役割まで担う余裕がない。そのため、ウェルビーイングやアクセシビリティの問題が、一部の教育普及担当者だけの仕事になりやすいという。
しかし本来、それは組織全体で考えるべき課題である。
今回のフォーラムでは、「収集・研究・保存・展示」という役割を持つ従来型の美術館観から脱却し、地域社会のインフラとして美術館を再定義する必要性が繰り返し語られた。
また、文化政策のあり方も課題として挙がった。日本では単年度予算が中心であり、長期的なプロジェクトが育ちにくい。一方、英国では10年単位のビジョンを持ちながら、文化・福祉・医療を横断する政策が進められている。文化活動の価値を「感動」だけで語るのではなく、社会的効果や経済的波及も含めて検証していく必要性も共有された。

美術館は「生き方」を支える場所になれるか
今回のフォーラムで印象的だったのは、「健康」という言葉が、単なる医療の話として扱われていなかったことである。議論の中心にあったのは、「どう生きるか」という問いだった。
孤立しないこと。
誰かとつながれること。
自分の経験を語れること。
安心して居場所を持てること。
そうした人間の根源的な営みに、美術館はどこまで関われるのか。
美術館は、作品を守る場所であると同時に、人々の記憶や物語を受け止める場所でもある。
そしてこれからの時代、美術館は「文化施設」であるだけでなく、地域社会を支える公共基盤として、その役割をさらに広げていくのかもしれない。
今回のフォーラムは、その変化の入り口を示していたように思う。

《参考リンク》
・国立アートリサーチセンター 「文化的処方」刊行物(マンチェスターの活動報告書翻訳版含む) https://ncar.artmuseums.go.jp/publications.html#sec-6
・ART共創拠点
https://kyoso.geidai.ac.jp/
・東京都美術館 ミュージアム処方「上野モデル」試行的実践 報告書https://creativewell.rekibun.or.jp/1317dcc65c08cb7e7c8a53c84ef455affa3b2069.pdf
同館 アート・コミュニケーション・プログラム https://www.tobikan.jp/learn/index.html
染谷ヒロコ
美術鑑賞ファシリテーター、編集・ライター。MFA(美術学修士)
フリーランスとして美術館などでの教育普及プログラムの企画・運営や美術鑑賞ツールなどの開発などに携わる傍ら、美術教育・美術館をテーマにした取材などを重ねる。「美術検定」の元編集者(2007〜2025年)。手がけた書籍に「美術検定」関連書籍のほか、上野行一執筆・監修『五感をひらく10のレッスン 大人が愉しむアート鑑賞』(美術出版社、2014年:編集)、奥村高明『エグゼクティブは美術館に集う―「脳力」を覚醒する美術鑑賞』(光村図書、2015年:編集)、秋元雄史『おどろきの金沢』(講談社α新書、2017年:構成・編集協力)などがある。




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